転職のリクルートエージェント > 転職成功ガイド > 偉人たちの現導力 > Vol.2 武田信玄の現導力

偉人たちの現導力

Vol.2武田信玄の現導力

会議の達人・信玄の秘密

「あと10年生まれるのが早かったなら、天下統一を成し遂げたのは信長ではなく、信玄だったのではないだろうか」

歴史にifは禁物というが、武田信玄はその“もしや”を語りたくなる魅力に溢れた戦国武将だ。その強さの秘密を探っていくと、意外なことに「会議」に行き当たる。

武田 信玄 (たけだ しんげん)
肖像画:武田信玄
戦国時代の甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。
隣国・信濃に侵攻する過程での、越後国の上杉謙信との五次にわたると言われる川中島の戦いは有名。信濃をほぼ平定し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没。
武田信玄のリーダー力
グラフ

1. 軍事とインフラ、両面に長けた信玄

武田信玄が病に倒れ、急逝したのは、風林火山の旗印の下、いよいよ京都に向かったその途上のこと。信玄急死の報を耳にした信長は、一気に天下統一へのプロセスを加速させていくことになる。もしもあのとき信玄が信長と戦っていたら、日本の歴史は変わっていただろう…。

そこまで言われるほどに、高い評価を受ける武田信玄。では、その強みはどこにあったのだろうか。まず思い浮かぶのは、風林火山の旗印の下、戦国最強との呼び声が高い「甲斐騎馬軍」を作り上げた、軍事家としての面だろう。事実、信玄は1550年の信濃・村上義清攻めで敗れて以降、終生、20年以上にわたって“負け知らず”であった。ライバル上杉謙信とは勝負を決するに至らなかったものの、今川、北条、徳川などとの戦にはことごとく勝利し、最終的には北は信濃から南は駿河までの広い地域を支配下に収めている。

ただし、武田信玄の本当の強さを支えたのは領内の繁栄だ。実は信玄は、インフラ整備を重視した内政家でもあったのだ。当時、氾濫を繰り返していた、領内河川の治水を集中的に進めることで(今も甲府盆地に残る「信玄堤」はまさしくその名残)、甲斐を"農業大国"に育て上げている。信玄は有能な戦国武将の常で、“軍神”のようなイメージがあるかもしれないが、むしろ、内政外交(戦争)の両面をうまく強化した、バランス型のリーダーだったのだ。

2. リーダーを支えた「チーム信玄」

ではなぜ、信玄は優れたリーダーたり得たのか。もちろん、自身の能力の高さもあったろうが、それ以上に、周囲の優秀な人材を活かしきったという点が大きかったと考えられる。

江戸時代に広く読まれた、武田軍の戦略を記した軍学書である『甲陽軍鑑』によれば、信玄は「武田二十四将」と呼ばれる、優れた家臣に恵まれたとされている。この甲陽軍鑑、実は、信玄の活躍を誇張して記述した部分が多く、事実とは異なる記述もあると言われているのだが、信玄が生涯を通じて有能な部下に囲まれたことは紛れもない事実。その構成もなかなかバラエティに富んでおり、親族や昔から武田家を支えた重臣だけでなく、もともとは信玄の身の回りの世話をしていた高坂昌信や、浪人として諸国を放浪していた山本勘助の例でもわかるように、身分にとらわれずに、有能と思った人材は積極的に抜擢した。

ただし、人材がいるだけでは、組織はうまく動かないのは今も昔も同じこと。能力が高い個人がどれだけいても、優れたチームにはならない…などということは、社会人であれば誰しもが知っていることだろう。組織が大きな成果を生み出すのは、組織としてのプラスアルファの力、すなわち「シナジー」を生み出す必要がある。山間の一国に過ぎなかった甲斐を天下を伺うほどの強国にしたのは信玄が、彼の周囲の人材を最大限に活かしたからなのだ。その際のキーワードは「会議」。信玄は会議の達人だったのだ。

3. シナジーを生んだ“信玄の会議”

信玄は重要な意志決定の際にも「合議制」を採用していたことが知られている。領主の独断、あるいはごく少人数での専制的な意志決定を行う国が多かった戦国時代にあって、それは実に珍しいことであった。会議の場での信玄は、すべての部下に意見を述べるよう促した、という。

チームがシナジーを発揮するためにもっとも重要なことは、全員が問題の解決や理想の実現に向けて一つの方向を向くことだが、そのプロセスにおいて、メンバーの一人ひとりがチームに主体的に参加することが絶対的な条件となる。自らの意見を持つこと、そして、それをぶつけ合う過程が欠かせないのだ。

足を引っ張ることはもとより、“俺には無関係”とばかりに冷めた振る舞いをする人がいるようでは、組織の成長は見込めない。信玄はそれをよくわかっていたのだろう。部下達を信頼し、自分の言葉で意見を語るよう促し、主体性を持ったメンバーが集う、本当のチームに育て上げたのだ。信玄は現代で言う「チームマネジメント」を、戦国の世で実践していたというわけだ。

4. 強いチームを育てたリーダー像とは

“信玄の会議”にはもう一つの特色がある。基本的には合議制をとっていたとはいえ、判断の難しい議題では結論がでないこともある。国の進路を決めるような決断の場では、意見は複雑に絡み合う。

そんな時信玄は強力なリーダーシップを発揮し、意見をまとめ、決断を下したという。方向を決めかねた、あるいは誤った方向に進みつつある組織を正すただ一つの方法は、リーダーが毅然たる態度を取ることだ。しかし、厳しい上下関係や微妙な力関係、さらには下剋上という戦国時代特有の風潮が蔓延していた当時、部下とのバランスの取り方は一筋縄ではいかなかったはずだ。そんな環境の中で周囲を説得するには、自らの責任において、「この問題を解決すれば、こういった利益を得ることができる」と、明確なビジョンを示すことも必要だったに違いない。これもまた、現代にも通じるチーム運営の方法だが、信玄は、一つずつ、成果達成を繰り返すことで周囲を説得しながらチームを強化、ひいては甲斐の国を天下をうかがうほどの強国へと育て上げたのだ。

歴史学者 小和田哲男の解説
小和田哲男
解説者近影
  • 1944年2月1日生まれ。
  • 文学博士、歴史学者。特に日本の戦国時代に関する研究で知られる。
  • 静岡大学名誉教授
  • 当コラム監修
  • Point1 家臣を褒めて使った信玄

    武田軍が強かった理由の一つは信玄の人心掌握術にありました。戦いに勝ったとき、たとえ、それが自分の采(さい)配(はい)がよかったから勝った場合でも、自分の采配のことは自慢せず、常に、家臣に対し、「お前たちの働きがよかったから勝てた」と、家臣たちを褒めていました。これで、家臣たちのやる気をさらに引き出していたのです。これは現代のリーダーでもそのまま使えるやり方ではないでしょうか。

  • Point2 家臣団の結束力が基本

    信玄が家臣の結束力を国づくりの基本にしていたことは、有名な、「人は城人は石垣人は堀情は味方讎(あだ)は敵なり」という歌にもあらわれています。信玄の時代にはまだ石垣の城はないので、これは後世の人が創作した歌ということになりますが、信玄が安土城や大坂城のように豪壮な城を築かなかったことは事実です。人の和を大事にした武将でした。チームを成すのはやはり人一人ひとり。やはりこれも現代でも同じことが言えるはずです。

  • Point3 諫言がいえる家臣を!

    いかにも会議を重視していた信玄らしい名言が『甲陽軍鑑』に載っています。それは、巻十四にみえるつぎのような言葉です。

    国持つ大将、人をつかふに、一(ひと)向(むき)の侍を好き候て、その崇敬する者共、同じ形儀作法の人計(ばかり)、念(ねん)比(ごろ)して召し使ふ事、信玄は大きに嫌ふたり。

    さしずめ、今風ないい方をすれば、「イエスマンばかりをまわりに置くのは嫌いだ」といったところでしょうか。

最新の転職マーケットを熟知したキャリアアドバイザーがあなたの状況に合わせて、転職をサポートします。

転職支援サービスに申し込む【無料】